2024年12月12日木曜日

日本原水爆被害者団体協議会が『ノーベル平和賞』を受賞

去る10日、ノルウェー・ノーベル財団が、日本原水爆被害者団体協議会(略称:日本被団協)に今年の『ノーベル平和賞』を授与したことが大きく報じられました。

「世界の核兵器廃絶実現に向けた努力と、核兵器が二度と使われてはならないことを本人たちの証言を通して示したこと」を高く評価しての授賞 とされています。

この報道に触れ 同じ日本人として誇りに思うと同時に、日本人だけが身をもって体験させられた「被爆」という甚大な被害を思い起こし、この受賞について〝喜び〟というよりも〝責任感〟のようなものを感じ入ることになったのでした。




ノルウェー・ノーベル委員会は、2024年の『ノーベル平和賞』を日本の組織「日本被団協」に授与しました。

同委員会は「広島と長崎の原爆投下を生き延びた人々(ヒバクシャ/被爆者)による「ノーモアヒロシマ・ノーモアナガサキ」なる草の根運動は、核兵器なき世界の実現に向けた不断の努力であり、そのうえで それが、核兵器を二度と使ってはならないという「本人たちの証言」に基づく強いメッセージとして示したことを高く評価し、平和賞を授与する」とされており、日本被団協が歩んできた歴史と不断の活動を高く評価していました。

ノーベル委員会は被団協の取り組みを回顧しています。

「1945年8月の2発の原爆により 約12万人の市民が生命を奪われ、これに匹敵する数の人々も 原爆被害によりなくなったり後遺症を抱えることなってしまいました。被団協の方々は、これら苛烈な戦禍を回顧したうえで、このような甚大な被害を受けたことを踏まえ 被爆者やその家族・関係者が「こんな経験は私たちで終わりとし、世界の人々に もう二度とこんな辛い思いをさせたくない」との思いを起点とし団体を立ち上げ、世界的な核兵器反対運動を起こしました。

その共通の思いを抱くメンバーによるアピールは、核兵器の使用が人道的に破滅的な結果もたらすという認識を高め やがて「核兵器禁止条約」等の国際規範の創設につながりました。

「核兵器の使用は道義的に許されない」という不文律が呈せられ、それは「核のタブー」として世界的に認知されるようになった。」としたうえで「ここに至るまでに大きな影響力を発揮されたのが、ヒロシマとナガサキの被爆者(生存者)の証言と、甚大な被害がもたらされた両地の惨状でした」としています。

さらに「これらの歴史的証人は、自らが受けた苛烈な経験を 自らの口で伝える努力を重ねてこられました。被爆者は、我々が表現できないことを表現し・考えられないことを考え・核兵器により引き起こされる理解しがたい痛みや苦しみを誰よりも実感をもって伝承する役割を果たしてこられました。」としたうえで「それら地道な活動をもって、第二次大戦後 この80年間、紛争において核兵器が使われたことはありません。それは何より 日本被団協等の被爆者の方々によるアナウンスの成果であり、それは世界に「核のタブー」を確立し 強い抑止力となっているのです。」と改めて評価しています。

これは原爆投下により大きな被害(ダメージ)を受けた被爆者や関係者が、その被害が甚大であったからこそ、それ屈することなく「ノーモアヒロシマ・ノーモアナガサキ」として力強く立ち上がったこと・単なる被害意識による相手方を攻める報復運動ではなく、広く世界に対し核兵器の恐ろしさを伝えるとの広義に立った活動の崇高ぶりが評価されたものと思います。

ノルウェー・ノーベル委員会も「全ての被爆者に敬意を表したい。彼らは肉体的な苦しみや苦痛を伴う記憶にも関わらず、その大きな犠牲の経験を 平和への希望と努力を育むために用いることを選んだ」とし、深甚なる敬意を表していおりました。





そのうえで、なぜ今「日本被団協」に『ノーベル平和賞』が授与されるに至ったのか が考察されるところです。

このことについて識者は「現下の世界的な紛争状態と、それに伴い 世界の核保有国が所有する核兵器が実際に使われのではないかという懸念が、かつて無いほど高まっていることが背景にあるのではないか。」としたうえで「ウクライナへの軍事侵攻に踏み切ったロシアのプーチン大統領は 核兵器による威嚇を続け、また核開発を進めている北朝鮮は、ミサイルの発射を繰り返している。一方、一部の国においては (自国の)核保有による「核抑止力への依存」を強めようとする動きも出る中、核軍縮に向けた機運を高めていきたいというメッセージが込められているのではないか」としており、私も同意の中で、今こそ被団協の崇高な意識が世界にアピールされたと実感されるところです。





受賞にあたり、日本被団協代表委員の田中熙巳さん(92歳)は、まさに塗炭の苦しみとなった苛烈な経験を踏まえ、核兵器廃絶を願う〝魂(たましい)の演説〟をされ、聴衆から大きな拍手を受けた様子が報じられていました。


〔参考〕日本被団協代表委員の田中熙巳さん演説(全文)

           ↓

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20241211/k10014664891000.html



田中さんは、日本被団協の結成の経緯として「(原爆被害から)生きながらえた原爆被害者は歴史上未曽有の非人道的な被害をふたたび繰り返すことのないようにと、二つの基本要求を掲げて運動を展開してまいりました。一つは、日本政府の「戦争の被害は国民が受忍しなければならない」との主張に抗(あらが)い、原爆被害は戦争を開始し遂行した国によって償われなければならないという運動と、核兵器は極めて非人道的な殺りく兵器であり人類とは共存させてはならない、すみやかに廃絶しなければならない、という運動です。」と述べたうえで、日本被団協の運動が「核のタブー」の形成に大きな役割を果たしたことは間違いないものの、依然として12000発の核弾頭が地球上に存在し、4000発近くの核弾頭が即座に発射可能に配備がされているなかで、ウクライナ戦争における核超大国のロシアによる核の威嚇、また、パレスチナ自治区ガザ地区に対しイスラエルが執拗に攻撃を加える中で核兵器の使用を口にする閣僚が現れるなど、市民の犠牲に加えて「核のタブー」が壊されようとしていることに「限りない悔しさと憤りを覚えます。」と述べておられます。

また、田中さんは被爆直後のまちの様子を回顧し、そこで受けた苛烈な体験を述べたうえで「一発の原子爆弾は私の身内を無残な姿に変え、一挙に命を奪いました。その時目にした人々の死にざまは、人間の死とはとても言えないありさまでした。誰からの手当ても受けることなく苦しんでいる人々が何十人何百人といました。たとえ戦争といえどもこんな殺し方、こんな傷つけ方をしてはいけないと、私はそのとき、強く感じたものであります。」と言葉に力を込めておられました。

その後の日本被団協の活動により「核兵器禁止条約」が制定されたのです。

そのうえで田中さんは「日本被団協は、核兵器の保有と使用を前提とする〝核抑止論〟ではなく、核兵器は一発たりとも持ってはいけないというのが原爆被害者の心からの願いです。」と述べておられました。

そして最後に「原爆は、大きな被害を直ちに現出させます。みなさんがいつ被害者に・いつ加害者になるかもしれない状況があります。ですから、核兵器を無くしていくためにどうしたらいいか 世界中のみなさんで共に話し合い、求めていただきたいのです。」

そして「原爆被害者の現在の平均年齢は85歳。10年先には直接の被爆体験者としての証言ができるのは数人になるかもしれません。これからは、私たちがやってきた運動を、次の世代のみなさんが、工夫して築いていただくことを期待しています。

昨日の聞き手は明日の語り手」なのです。

人類が核兵器で自滅することのないように、そして、核兵器も戦争もない世界の人間社会を求めて共に頑張りましょう!」と結んでおられました。





御年92歳。そんな 年齢を重ねた氏は、で あるからこそ実感が込められた演説であり、それは核兵器の恐ろしさを語るうえで真に迫り、聞く者の胸に染み入るものであったことでしょう。


実は私も、戦争体験者の人の回顧録を直接に聞いたことがあります。

その人は、フィリピンで従軍中に 移動のために乗っていた輸送船が銃撃と魚雷攻撃を受け沈没したそうなのですが、その際に スグ隣りにいた戦友が、腹から尻を撃ち抜かれ絶命していった様子を目の当たりにした様子を語ってくださり、共に涙したものでありました。

まさに「事実は小説より奇なり」心に重く迫るものでありました。


今回の日本原水爆被害者団体協議会さんの『ノーベル平和賞』受賞は、苛烈な体験をした方々の団体であるからこその受賞であったと再認識いたしました。

そのうえで、同じ日本人として これからできること…田中さん曰く「今日の聞き手は明日の語り部」を胸に、核兵器の恐ろしさと戦争の無意味さを他者(世界)に伝え、平和社会の大切さをアナウンスしてゆくことが課せられていると改めて自覚いたしたところです。

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